命みなぎる新緑の季節となりました。中庭のヤマボウシは、ゆさゆさと若葉を揺らし、白い花をつけています。小鳥のさえずりで目を覚ます朝、あぁ自然の営みのありがたさ、ささやかな日常を過ごしています。
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1年前のことなんですが、
ふと思い出したのでココに綴ります。
私の住む町のさるお寺の
千手観音サマが、
約1年の修復作業を無事終えて、
お寺に戻ってきたという。
修復開眼法要が営まれるというので、
出かけた。
いつでも拝観できるわけではなく、
この機会を逃したら次は33年後である。
私は生きているという保証はない。
明日のことなどわからない。
手帳には、極細ペンで予定を書き込むが、
それはあくまでも予定だ。
予定を既成事実にするためには、
行動あるのみ。
”すぐやる課”の心意気が大切である。
初めて走る道を、地図を助手席に置き
ハンドルを握る。
下調べの段階で、交差点や信号機の名称を
メモ用紙にサインペンで大きく書き出しておく。
これをハンドルの近くに貼り付けておく。
地図を見ながら運転するのは難儀で
危険をともなうが、このようにしておけば、
メモと信号機の下の看板の名称を
照らし合わせて進めば、
迷うことなく目的地にたどり着ける
自分のことを“地図が読めない女”
だと卑下していたけれど、
それは助手席で運転にいそしむ
オットを尻目に、居眠りしながら
お気楽に座っていたときのこと。
自力で行くしかないというときには、
その気になれば地図くらい読める女
になれるのだ、といくらかの自信をもった。
開眼法要というものに臨席するのは
初めてのことで、要領がよく理解できない。
”お気持ち”を受付で差し出し、本堂に入る。
カラフルな袈裟をまとったお坊さま方が
お出ましになり、お経を唱えながら輪に
なってぐるぐる回り始めた。
着席して文机からそれぞれの経典を取り出し、どさっと上に積み上げる。
坊さんの長の掛け声に合わせて、
手さばきも鮮やかにアコーディオンの
ごとく広げては閉じてを繰り広げる。
どんな意味があるのか知る由もないが、アリガタイ千手観音サマのご加護にあずかるため、今一度経典に風を通して心を正す、といったところか。
いよいよ、千手観音サマとご対面のとき。
列に並び、順番の来るのを待つ。
檀家の方に混じって、私のような
千手観音ファン(カメラを持っている)
や仏像マニアといった人種も少なくない。
かのお方は、高い所に静座されており、
目を閉じて手を合わせておられる。
慈悲の手は、一見込み合っていて異形に映る
が、よく見ると方向も表情もさまざまで、
持っている小道具も意味ありげである。
ろうそくの炎に浮かび上がるお姿からは、
神々しいものを感じ、おだやかな表情と
たくさんの手というミスマッチが、
千手観音の魅力だと確信した。
観音という位はまだ修行中の身だという。
私は、二本の手さえ存分に使いこなせて
いるとは言えない。与えられた両手で、
私は何ができるのだろうか。自分のため、
人のために何ができるのか、考えた。
ココを押していただけるとウレシイです
ふと思い出したのでココに綴ります。
私の住む町のさるお寺の
千手観音サマが、
約1年の修復作業を無事終えて、
お寺に戻ってきたという。
修復開眼法要が営まれるというので、
出かけた。
いつでも拝観できるわけではなく、
この機会を逃したら次は33年後である。
私は生きているという保証はない。
明日のことなどわからない。
手帳には、極細ペンで予定を書き込むが、
それはあくまでも予定だ。
予定を既成事実にするためには、
行動あるのみ。
”すぐやる課”の心意気が大切である。
初めて走る道を、地図を助手席に置き
ハンドルを握る。
下調べの段階で、交差点や信号機の名称を
メモ用紙にサインペンで大きく書き出しておく。
これをハンドルの近くに貼り付けておく。
地図を見ながら運転するのは難儀で
危険をともなうが、このようにしておけば、
メモと信号機の下の看板の名称を
照らし合わせて進めば、
迷うことなく目的地にたどり着ける
自分のことを“地図が読めない女”
だと卑下していたけれど、
それは助手席で運転にいそしむ
オットを尻目に、居眠りしながら
お気楽に座っていたときのこと。
自力で行くしかないというときには、
その気になれば地図くらい読める女
になれるのだ、といくらかの自信をもった。
開眼法要というものに臨席するのは
初めてのことで、要領がよく理解できない。
”お気持ち”を受付で差し出し、本堂に入る。
カラフルな袈裟をまとったお坊さま方が
お出ましになり、お経を唱えながら輪に
なってぐるぐる回り始めた。
着席して文机からそれぞれの経典を取り出し、どさっと上に積み上げる。
坊さんの長の掛け声に合わせて、
手さばきも鮮やかにアコーディオンの
ごとく広げては閉じてを繰り広げる。
どんな意味があるのか知る由もないが、アリガタイ千手観音サマのご加護にあずかるため、今一度経典に風を通して心を正す、といったところか。
いよいよ、千手観音サマとご対面のとき。
列に並び、順番の来るのを待つ。
檀家の方に混じって、私のような
千手観音ファン(カメラを持っている)
や仏像マニアといった人種も少なくない。
かのお方は、高い所に静座されており、
目を閉じて手を合わせておられる。
慈悲の手は、一見込み合っていて異形に映る
が、よく見ると方向も表情もさまざまで、
持っている小道具も意味ありげである。
ろうそくの炎に浮かび上がるお姿からは、
神々しいものを感じ、おだやかな表情と
たくさんの手というミスマッチが、
千手観音の魅力だと確信した。
観音という位はまだ修行中の身だという。
私は、二本の手さえ存分に使いこなせて
いるとは言えない。与えられた両手で、
私は何ができるのだろうか。自分のため、
人のために何ができるのか、考えた。
ココを押していただけるとウレシイです
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